世界のことを知りたい

読書習慣を付けたい。…マンガも本だよね?

「わたしの濃さ」という将来起こりうる実存の問題『虐殺器官』

伊藤 計劃 / 早川書房 (2012/8/1)

伊藤計劃による「虐殺器官」を読了。SF 小説というジャンルで、私には馴染みがありません。読んだ後で知りましたが、著者の伊藤計劃さんは既に亡くなっていて、メタルギアシリーズの小島監督と交友関係があった人らしいです。詳しくは Wikipedia で

この小説はいろいろな問題提起が含まれています。言語、自由、良心、実存、宗教などと、幅広い。たくさんなのでまとめ切れていない感はありますが、なるほどなと思わせられる見解があって面白かったです。この小説の巻末ではこの小説がずいぶん厳しく評されているらしいのですが、Kindle 版には巻末が一切含まれていませんでした。残念。何度も言っていますが、電子書籍化する際に巻末を削るのを止めて欲しいです。

この小説をネタバレなしで語るのはちょっと難しいです。なので適度にネタバレが含まれてしまいます。何も知らずにこの小説を読みたい人は注意してください

私はストーリー自体より、ストーリー中に散りばめられた様々な物事に対する見解が面白かったので、それをいくつか挙げてみます。

「わたしの濃さ」という概念

「たしかに、かつては意識は『ある』状態と『ない』状態の二種類しかない、と思われていました。睡眠の印象が人間にとってあまりに支配的だったからです。人間は気絶しますし、眠ります」

「それ以外の状態があるというんですか」

ええ、と医者は言い、ここ十年ほどの脳科学の進化について説明し始める。曰く、マッピング技術の進化によって、脳の様々な機能の局在に関する詳細な地図が作成されるようになった、と。どこがどのような処理を行うのか、いまでは脳は五七二の処理モジュールにまで分解されている。

...

「眠りと覚醒のあいだにも、約二十の亜段階が存在します。意識、ここにいるわたしという自我は、常に一定のレベルを保っているわけではないのです。あるモジュールが機能し、あるモジュールはスリープする。スリープしたモジュールがうっかり呼び出しに応答しない場合だってある。物忘れや記憶の混乱はそのわかりやすい例ですし、アルコールやドラッグによる酩酊状態もまた、その一種です。こうして話している今だって、わたしやあなたの意識というのは一定の……こう言ってよければ、クオリティを保っているわけではない。わたしやあなたは、たえず薄まったり濃くなったりしているのです」

「『わたし』が濃くなったり薄まったり、ですって……」

...

「わたし」も「意識」も、要するに言葉の定義の問題になったのだ、と。どれだけのモジュールが生きていれば「わたし」なのか、どれぐらいのモジュールが連合していれば「意識」なのか。それをまだ社会は決めていないのだ、と。

これは分かりやすい話で、脳死判定の話を押し広げれば容易に理解できます。将来的には脳の機能がもっと分かってきて、確かにこの問題が発生しそうです。「生きている」「生きていない」の判断はより難しくなっていくでしょう。

実際のところ、もし医者に「あなたの母親は脳のここは生きていますが、ここは死んでいます。延命処置をどうしますか」と訊かれたら困りませんか。今は「脳が死んでいる」とある程度一括りにできるので良いのですが、確かに将来的には「脳のこの部分が死んでいます」と、もっと詳細な状態が分かるようになるでしょう

こうした問題に対して、社会が決定するのか、個人が決定するのか。この判断は一個人には本当に難しいです。小説中では主人公は母親の延命処置を止めた決定が正しかったのか悩みます。「母親を殺した」罪があると主人公は認識しています。

これに加えて、主人公は戦争をするために自身の脳の倫理的な思考部分や痛覚を感じる部分が抑制されるよう処置を施されることについて、「わたしが希薄だ」と感じます。倫理的な思考をできないようにして、子供を撃ち殺す。そうしないと自分が死んでしまいます。「わたしは薄まっている」。でも、何があれば「わたしが濃い」と判断できるのでしょうか。

その他勉強になった部分を抜粋

言語について

「数学者や理論物理学者は、どうやって思考していると思いますか」

そう訊かれたので、数式によってじゃないですかね、とぼくは答える。ルツィアはかぶりを振って、

「アインシュタインは、イメージが浮かぶ、とはっきり語っているわ。天才的な科学者の多くが同じことを言っている。頭の中でイメージとして想定し、その映像をいろいろ捏ね繰り回した後で、最後に数式として『出力』するのよ」

...

「ではあなたは、ことばをどんなものとして見ているのですか。...」

「もちろん、コミュニケーションのツール。いいえ、違うわね……器官、と呼ぶべきかしら」...

「器官、というのは、つまり、腎臓や腸、腕や眼と同じような意味での『器官』ですか」

「そう」

...

「ことばは、人間が生存適応の過程で獲得した進化の産物よ。人間という種の進化は、個体が生存のために、他の存在と自らを比較してシミュレートする―つまり、予想する、という思考を可能にしたの。情報を個体感で比較するために、自分と他人、つまり自我というものが発生した。… そうすることで、人間はいろいろな危険を避けられるようになり、やがてそれぞれの個体が『予測』した情報を個体間で交換するために、言葉は発生し、進化したの。自分が体験していない情報のデータベースを構築して、より生存適応性を高めるために」

...

「だとしたら、生物が進化すると必然的に言葉を持つとか思うのは、人間の思い上がりと言うことになるんですね」

「カラスが築いた文明があったとして、進化した生物はすべからく鋭いくちばしを持つ、というようなものね」

「数学者は数式で思考する」というような言葉を一度は聞いたことがあると思います。この部分はそれを覆してくれます。さらに、「言葉・言語」は単に生存するための過程で得られた「器官」、と説明されます。この見解が本当に正しいのかは私には分かりませんが、ものの見方としては面白いです。

ただ、「何故カラスが言語を持たないのか」と突っ込みを入れられるかもしれません。カラスだって生存目的で他の個体とコミュニケーションをするためには言語を用いるのは便利そうですが。

理性と感情について

感情とは価値判断のショートカットだ。理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。完全に理性的な存在があったとして、それがすべての条件を考慮したならば、何かを決めると言うこと自体不可能だろう。

もう1つ。

「... 理性はほとんどの場合、感情が為したことを理由付けするだけです」

少し言い過ぎな部分はあるとは思いますが、これが当たっている時もあるでしょう。

宗教について

神は死んだ、と誰かが言った。そのとき罪は、人間のものとなった。罪を犯すのが人間であることは不変だったが、それを許すのは神ではなく、死にうる肉体の主人である人間となった。

...

魂がある、肉体を離れた人間の崇高な中枢がある、と考えたほうが、ぼくが見殺しにしてきた多くの子供たちや、手にかけてきた多くの独裁者やごろつき、そうしたものの命を奪ったという罪を軽減できる―そうした魂がしかるべき生を営むことのできる、天国とか地獄とかいうオルタナティブな世界を想定すれば。

なんだ、宗教の最低の利用法じゃないか。ぼくは全然無神論者なんかじゃない。そのことに、いま気がついた。

多くの人を殺してきた主人公が悩んでいる時のもの。主人公は暗殺部隊にいる。主人公は今まで「仕事で」殺しをしてきました。殺した罪を背負うのは誰なのかと悩み続けます。この部分は後に「人間の自由とは何か」につながり、「殺しを自由に選択したのは私だ」と到ります。

愛国心について

自分の国を守るために自らを犠牲にするという精神自体は、つい最近発生したものに過ぎない。

...

一般市民にとって愛国心が戦場へ行く動機になったのは、戦争が一般市民のものになった、言うなれば民主主義が誕生したからなのだった。自分たちの選択した戦争なのだから、そこに責任が生ずるのは当たり前だ。その責任がいわば、愛国心というやつだった。

ここも言い過ぎで間違った部分もありますが、民主主義のシステム的に、戦争の責任が個人へも向かうという見方は確かにあります。責任が自分に来るならば、その責任こそが愛国心だ、と。

セキュリティーについて

「人々は個人認証セキュリティに血道をあげているが、あれは実はテロ対策にほとんど効果がない。というのも、ほんとうの絶望から発したテロというのは、自爆なり、特攻なりの、追跡可能性のリスクを度外視した自殺行為だからだ。社会の絶望から発したものを、システムで減らすことは無理だし意味がないんだよ」

マーガレット・ミードの「サモアの思春期」について

「マーガレット・ミードが書いたサモアの楽園は、ちゃんとした追跡調査の結果とんでもない嘘っぱちだと言うことが分かっている。その調査には、サモアで起こった様々な殺人事件や強姦について書いてあるよ。」

初めて知りました。Wikipedia を参照してみると、

マーガレット・ミード - Wikipedia

サモアの文化に興味を抱いて40年間に渡り研究を続けたニュージーランドの文化人類学者であるデレク・フリーマンは、その著書『マーガレット・ミードとサモア』の中で、ミードの著書『サモアの思春期』を、「根本的に間違っている」と切り捨てた。フリーマンによれば、このミードの調査は、サモアの言葉が分からないミードの数ヶ月でしかない滞在の間の「事実誤認」によるものだという。

このフリーマンの手によるミードの批判書『マーガレット・ミードとサモア』は、ミードを好意的に評価する欧米のフェミニストからすらも「綿密に細部を検討・調査して作られた学術書」だと評価されている[要出典]。とはいえシャンクマンによる2009年の詳細な著書ではフリーマンの主張の多くがでっちあげだとしている[1]。

フリーマンによるこの批判書により、当時の米国の学会に激震が起きた。すでに「性役割は社会的につくられたもの」だとするフェミニズムの主張の多くが、このミードの調査に基づいたものだったからである。しかしながら、このフリーマンによる批判があるにもかかわらず「ある部族でのミードの発見」は日本のジェンダー論者によっていつまでも使い回しにされており、「性役割は生得的なものとは限らない」という話の枕に、この事実誤認によるミードの調査結果が必ずと言ってもよいほど登場させられている。

どっちやねん! この小説が書かれた時点ではシャンクマンによるデレク・フリーマンの批判はなかったので、小説はこの時は間違ってはいません。

ただ、どちらにせよ、

"gender"という用語はもともと身体的性を示す言葉として存在していたが、ミードは「社会的・文化的性」という意味でのジェンダー研究を行った先駆者でもある。著書の一部はジェンダーが社会的に構築されたものであることを立証するとしてフェミニストたちから注目され、現在でも日本の社会学によって流用され続けているが、調査内容が間違いであったと指摘されている。また、ミード自身も「男女の役割が逆転した社会を発見した覚えはない」と語っている。

これは正しそうです。

おわり

本当は他にも為になった部分があるのですが、物語の核心に触れすぎるので省きました。この小説は、世界に虐殺をもたらした首謀者がいて、それを捕まえるという話。陳腐な小説ではその首謀者を「狂っている」と一蹴して終わらせてしまいますが、この小説の行動理由は良かったです。そういう面もあるだろうと思えました。

小説中では難しい表現もあります。でも、筆者が分かり難いだろうと判断した文章は、有り難いことに言い換えが必ず付いています。知らない名称を挙げられて調べないとならない箇所は多かったのですが、言い換えがある部分は助かりました。

Amazon でのレビューコメントを読むと、「SF ファンからするとこの小説は SF ではない」とのことです。これが私にはよく分からなくて、どういう観点から SF ではないのか知りたいところです。

ここでちょっと Wikipedia の SF についてを読むと、その歴史の文章量の多さには圧倒され、読む気が起きません。もしかしたら、「SF ではない」という言葉は、ここページの、

アイザック・アシモフの著作によると、単に宇宙船や宇宙人が登場するのがサイエンス・フィクションではなく、価値観の転倒による驚き、すなわちセンス・オブ・ワンダーが必要とした。

という部分を根拠に批判しているのかもしれません。これなら確かにそうと言えなくもないです。この小説では価値観の転倒とまでは到りませんでした。でも SF 小説では必ず価値観の転倒が起きなくてはならないとすると、世に出ている SF 小説を読む度に価値観が転倒することになってしまいます。何回転倒すれば良いのでしょう。

いろいろなテーマを入れすぎて小説がまとまっていないという意見は分かります。でも、その雑多な部分は私に新しい見解をもたらしてくれたので有り難かったです。ストーリーを追うのが楽しいだけの小説ではなく、新たな見解ももたらしてくれる小説でした。

ただ、その見解には少し気になる部分は残ります。作中に登場する「ジョン・ポール」はおそらく実存主義のサルトルの名前(ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル)に由来するかと思います。この小説中の「自由」についての観念に顕著なのですが、構造主義的発想が欠けていて、少し首をかしげることが多かったです

登場人物たちが環境と自由の話をしたときに、「環境は影響せず、私たちは自由に物事を選択可能である」という結論になってしまいます。著者がサルトルに強く共感したのかもしれません。

伊藤 計劃 / 早川書房 (2012/8/1)