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噺の完全コピーはしない、リアリティは追求しない『落語家はなぜ噺を忘れないのか』

柳家 花緑
KADOKAWA / 角川マガジンズ (2014/8/21)

落語家はどうやって噺を覚えているのでしょう? 数十分続く長い噺を間違えずに喋っているように見えます。そんな長い噺をどうやって覚えれば良いのか。

その答えが書かれている本だと思って読んだのですが、これについてはあまり触れられていませんでした。

さて、前述したとおり、私はネタを覚えるときは、ノートに書き起こして台本を作っています。写真(項末参照)に載せたような具合に書き込んでいくのですが、こういう落語家がいる一方で、基本的にはノートなどは作らず、誰かが話したテープなどを聞くだけで覚えてしまう人たちもいます。私が知っている中で、その代表格は立川談春師匠です。

私は後輩ですが、談春兄さんに祖父の十八番でもある『啞の釣』を教えてくれと言われたことがあります。兄さんの自宅で稽古をしたのですが、これがすごかった。私が一回しゃべるのをジッと聞いていた兄さん、「あ、わかった。いいな、一回やってみるから聞いてくれ」と言って、その場で一気にしゃべるんです。既にアドリブで自分のギャグもいくつか入ってる。

「これでいいな」

「はい」

てなもんで終了です。もちろん、私の噺をメモしたり録音してもいない。たったそれだけで見事に高座でも演ってしまう。こんな器用な人がいるのかと驚きました。

著者は柳家花緑さんです。実は私は全然知りません。テレビでは落語で人物を紹介するコーナーを担当しているらしいです。彼は噺の内容を全部ノートに書き取り、そこに注釈を加えたりしながら覚えていくようです。噺をどうやって覚えているのかについてはこれだけです。

後は落語をどのように面白くするのかを自分の体験を元に書いてあります。『落語家はなぜ噺を忘れないのか』というテーマは脇に置いて、色々と考えさせられた話があります。

完全コピーはしない、リアリティは追求しない

ノートに書き写したら、次はその噺を覚えなければなりません。まず、一から最後までノートを見ながらしゃべってみる。志ん朝師匠の話していることを、今度は自分の音として読むんです。ところが、何せ志ん朝師匠の丸コピーですからね、しゃべり方の緩急や声の高低まで耳に残っているまんまのコピーなんですよ。「さようでございまして、おぉーん」てな具合に、出来の悪いものまねみたいになっちゃって。今思うと、この滑稽さったらない。

他の書籍からですが、日本の伝統芸能には「師を見るな、師が見ているものを見よ」という金言があるそうです。これを上の話に照らし合わせると見事に理解できます。他人の完全コピーはできません。近づけさせることはできます。しかしそうやって伝統を受け継いでいくと、受け継いだ分だけ劣化していってしまいます。

95% の精度でコピーができたとしても、これを続けて 95% x 95% x 95% x … となると徐々に劣化していますね。

これではダメだ。落語家もそれは十分理解していて、師匠は弟子に自分の完全コピーはさせないようです。師匠(自分)に似てきたと言われたら他の師匠から噺を学べと外に出す。こうやってその人独自の落語を作り出させるようです。それでも師匠をどこか思い出させる芸風になるとか。

しかしリアリティは追求しません。これは意外。例えばソバのすすり方はできるだけ見ている人に想像させるように、ズルッといい音を立ててすすらねばなりません。リアリティを追求した方が良いのではないかと思ってしまいます。しかし著者の考えはこうです。

リアリティを追求すると何が起きるか? 一例として、こんな話があります。 ある落語家が『船徳』を高座にかけたんです。噺の最後のほうに船に乗ってた男が川の中をジャブジャブと歩く場面があるのですが、彼は「川底にあったガラスで足を切っちゃった」って演出を入れたんですよ。実際に昔はそうしたことがよくあったからってことで。確かにそれはリアルかもしれないけれど、聞いているお客さんは不快でしょう。足を切って、血を流しながら「アイタタタタッ」なんてシーンは誰だって想像したくない

リアルすぎても醒めてしまうのです。私事ですが、私は貝類が苦手です。別に食べられるのですが、ここに食道があって、胃があって…と想像すると、食べられなくなります

貝類は切らずに丸ごと食べるものが多いため、その貝の胃の中にあるものも食べている訳ですね。よーく想像してみてください。…この話、聞かない方が良かったかもしれませんね? 私と同じように苦しめ! (^_^)

こんな感じでリアルに話されても困る話があるわけです。よって、噺家はリアリティを追求せずに「それらしさ」を追求する。リアルすぎると良くない場面が存在するため、「それらしい」、つまり完全に描かなくともそれが伝われば十分ということです。

だから私は、「リアリティ」よりも「らしさ」のほうが大事じゃないかと思うのです。いかにも川に入ったらしい様子や、襖を開けたらしい仕草、子供らしい動き……。すべてが現実に即していなくても、「何となく、それらしい」というニュアンスのほうが、聞く側にも共通認識が生まれるのではないかと。また、想像の余地も与えるはずです。同じ酒を飲む行為だって、人により違いはあるでしょう。それを「酒を飲むってのは、こういうこと。これがリアル」と言われたところで、万人に通じるとは限りません。

なるほどなー。

柳家 花緑
KADOKAWA / 角川マガジンズ (2014/8/21)