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精神的タイムトラベルによって現実感が不安定になる『玩具修理者』

小林 泰三 / KADOKAWA / 角川書店 (2013/7/17)

現実感のふわふわ感が強烈。この小説はホラー小説という分類だったので、怖いのが苦手な私は覚悟を決めて読みにかかりました。でも読んでみてびっくり。ホラーというよりはミステリー。読んだ後に少し震えてしまうような不思議な作品でした。

この小説には「玩具修理者」と「酔歩する男」の2つの作品が入っています。どちらも短編といえば短編です。この本の全体の8割ほどが「酔歩する男」。この「酔歩する男」が本当にふわふわした不思議な作品で、読んだ私も現実感が薄れふわふわしてしまいました。読者への影響力が強烈な作品で、有害さをも感じます

少しだけネタバレを含めてしまいますが、大きなネタバレはしないように注意して書きます。

「酔歩する男」は導入もすごくふわふわしています。主人公が会社の同僚達とパブに行ったとき、主人公を知る男に出会います。彼との会話が全然理解できず、ここで作品に引き込まれます。

「あのう……。つかぬ事を伺いますが、もしや、わたしを覚えておいでじゃありませんか?」

わたしはその男にまったく心当たりがなかった。

「いいえ、失礼ですが、人違いではないでしょうか?」

「ああ、そうですか。知りませんか。そうですか。失礼しました。いえ、人違いではないんです。わたしはあなたをよく存じあげております。でも、あなたがわたしのことを知らないのなら、知り合いではないのでしょう。すみませんでした」

…(中略)…

「もし、あなたがわたしをご存じだとしたら、わたしが忘れていることになる。そうなんですか?」

「いいえ。そうじゃないでしょう。きっと、最初から面識がなかったのでしょう。あなたは大学の同窓生の顔を忘れるような人ではないはずです」男は僅かに微笑んだ。

「ということは、あなたはわたしと同窓なんですか?」

「絶対とは言えませんが、恐らく違うでしょう。もし、そうなら、親友の顔を忘れたことになる。いやいや、必ずしも親友とは限りませんが、少なくとも同窓生なら、顔を覚えているはずです。だから、わたしはあなたの同窓生ではないと思います」

この会話で主人公を知っているという男の発言にどういう一貫的な背景があるのか推察しようとしますが、答えが出ません。男が嫌みを言っているのかと思うとそうでもない。男は本当のことを言っている様子です。「あなたの同窓生」だと言いながら「あなたの同窓生ではないと思います」と言うのでどうしても繋がりません。この両方が成り立つのはどういうときなのでしょうか

「この両方が成り立つ」という言葉にピンと来た人は察しが良いです。この作品は波動関数に着想を得たのでしょう。シュレーディンガーの猫の話を知っていると理解しやすいです。作中でも波動関数について解説はしてくれてはいるものの、あらかじめ少しだけでも知っていると分かりやすいはずです。

過去にある女性が死んでしまい、そこから主人公と男は何とかしてその女性を生き返らせようとします。女性の遺伝子からクローニングしてもその女性は同じ女性とは言えないと気付き、過去にタイムトラベルしようという話になります。どうやってそのタイムトラベルをするのかという話が私にとっては斬新でした。

タイムトラベルというと、時間をねじ曲げる方向に話が進んだり、非現実的な説得力の無い不思議な力の話になったりしてしまうこともあります。でもこの作品はそうではなくて、自分を変えることでタイムトラベルしようとします。この理屈は読んでからのお楽しみとしてここでは書かないでおきます。タイムパラドックスの話も波動関数で説明されます。

タイムトラベルの理屈を聞いていると、どうも私の現実感がなくなってしまいます。「時間は連続していない、意識がそれを繋げているんだ」と説明され、それを体験する男の話を聞いていると、今私が体験している時間という存在が揺らいできます。この作中でのタイムトラベルは主観的なものだと説明され、これと同時に作品の文章も主観的に書かれていて、周りの描写が少ないです。客観的な記述がほとんど無く、そのため周りの風景が確定されず、文章の書き方もふわふわしている印象を増長させています。

ふわふわしている感じはこうやって感想を書いている時点でだいぶ無くなってきました。危なかった…。この作品はタイムトラベルのやり方が面白くて、それだけでこの小説を読んで良かったと思えました。直接的なホラー要素は少な目でそこも私には良かった。ちなみに上の訳の分からない会話は一度読み終えてからもう一度読むと理解できます。

ただ作品中で説明される理屈への突っ込みどころは結構あるでしょう。ここからは少々ネタバレを含むのですが、この作品で特に分からないのは、異なる時間に精神的なタイムトラベルをしながら、どうして記憶を保持しているのかです。精神に完璧な記憶が付随しているとは考えにくいので、違う日にタイムトラベルしたなら、その時の自分の脳で物事を考えることになります。となると、本文にあるように、男による記念講演は以前のタイムトラベルで講演内容が頭に入っていたから何とか終えられたという話がおかしいことになります。

あと女性についてもよく理解できませんでした。曖昧に書かれているので何とも言えない部分もありますが、彼女もタイムトラベラーなのでしょうか。映画の試写会に誘われたときに、「その映画、ロードショーで見たわ」と言うのはタイムトラベルをしているのか、時間の逆行をしているのか。はたまた、因果律の関連の話なのか。全体的なテーマからすると因果律の崩壊だとは思いますが、うまく納得できませんでした。

小林 泰三 / KADOKAWA / 角川書店 (2013/7/17)